サボリ倒しておりました、双子の育児日記、ダブル・トラブル。
7月20日にカレンとリサは5歳のお誕生日を迎えました。
♪ Happy birthday to me~
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ん?ってことは、年に1本のペースに落ち着いてきたみたいですね。今年前半に4ヶ月ほど個人ブログやってましたので、それをご覧になっていらした方はそんなに久しぶりでもないかも。
今日は、今年から通い始めたプリ・スクール(小学校の準備学級)のことと、お誕生日の話題を中心に、お話していきましょう。
オーストラリアでは2月が新学期。プリ・スクール(1年間の小学校準備学級)には4歳半で通いだしました。来年の2月には小学校1年生です。5歳から小学校なんて、ちょっと早すぎない?という気もするんですが、これがふつうの義務教育。早すぎる?と思われる子供には、入学タイミングを遅らせることもできるそうです。
プリ・スクールは、小学校の準備学級ですから、じっと座って集中すること、ルールやモラルを守って集団生活すること、決まった時間に登校する、といったルーティンを身に付け、慣らすための期間なのだろうと思います。25人の子どもたちに、二人の先生がつきます。
プリスクール授業風景
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基本的にやってることはキンディ(保育園)とそう変わらないだろうと思っていたのですが、プリ・スクールに行くようになって急に成長したような気がするんです。
プリ・スクールは週の半分だけで、あとの半分は今までどおりキンディに行くのですが、プリ・スクールに行った日はなんだか「おねえさん」になっているんですね。
そのうち、「プリ・スクールは好きだけど、キンディには行きたくない」と言い出しました。「どうして?」と聞いても、要領を得た答えは出てきません。
キンディでは「遊ばせる」だけで「教えて」くれないから退屈してるのかな?と思って、もっと「教える」ことに力を入れる英才教育的なキンディを探してみたりもしました。でも、子どもたちはあんまり乗り気でない。。。
結局のところ、彼女たちにとってのプリ・スクールの魅力は「大きい子だけが行くところ」なのだと気づきました。キンディには自分より小さな子もいっぱいいる、でもプリ・スクールは同年代の大きな子しかいない。そこに「私はビッグ・ガール」という自覚と自信の根源があるようなのです。どんなに優れたキンディに連れていっても、そこが4歳未満の子供を同時に預かっている限り、子どもたちは満足しないのでしょう。
それにしても、他のキンディ探しをしているときのダディの指摘、あまりに図星な正直さにハッとさせられました。
ダディのキス攻撃
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「ボクはキンディやプリ・スクールがウチの子たちに何か「教えて」くれるなんて期待していない。教えようと思えば自分たちでも教えられる(英語以外は…)。
それよりも、子供たちが家から出ている間、静かに自分の仕事ができるってことが重要なんだよ。子供たちの世話をしなくて済む、自分の時間が欲しいから、誰かに預かってもらってるだけなんだよ。」
おー、そのとーり! 子供たちが家にいたら仕事にならないから、誰か面倒みてー!っていうのが、私たちの第一ニーズなのです。なんといっても、親の事情最優先。よくもわるくも、それが真実。その罪悪感を払拭するために、「より優れた教育をしてくれるキンディに入れよう」という発想が出てくるのかもしれません。なんて安直なんだー!>自分。
私は昔から早期教育には疑問をもっているクチです。子どもが子供時代に遊びのなかから学ぶべきことを学んでいくのを邪魔しちゃわない? 外で元気に駆け回る意欲や、子どもらしい自由な感性を阻害し、大人の価値観に合わせた「いい子ちゃん」になっちゃわない? 人間関係において、自然な距離感や交渉力を学ぶチャンスが減ってしまわない?といった危惧を感じます。
でも、ウチの子たちが本当に、学ぶことに興味があって、もっと教えてもらいたがっているのなら、早期教育に力を入れている教育施設のほうが楽しめるのではないか?という気がしてました。それに、英才教育の弊害まで配慮し尽くした、バランスのよい早期教育ってものもあるのではないか?と。
だけどやっぱり、これも結局、「相手にしてあげられなくてゴメン」という罪悪感を埋め合わせるために、親として自己満足感が欲しかっただけ、なんですよね(^^;)。
最近は、いわゆる早期・英才教育とはまた別に、シュタイナー教育のような、こころや魂まで鑑みた、全体人間教育的な発想も注目されているようです。
私も気になってシュタイナー教育関連の本は何冊か読みました。概要としては賛成なんだけど、ディテールになるとちょーっと疑問を感じることもあります。
たとえば、シュタイナー教育について書かれた本を見ると、「7歳までは字を覚えさせないように」とあります。できるだけ「おとぎの世界」に置いておきましょう、という。その意図はよく分かるんですけど、大人が教えもしないのに自分から興味をもって書き始めたものをわざわざ止めるのもどうか?と。
夢物語のなかで文字を使うことだって、妖精が文章を書くことだって、あると思うのです(^^;)。
(余談ですが、シュタイナーって教育者だと思っていたけど、他にも瞑想や妖精や音楽や光・色など精神世界についてもいろんな研究をしているんですね。すごく難しいけど、すごく深い。)
シュタイナーの教育論にはたしかに惹かれるものがあるのですが、かといって、すべてを丸呑みするのもどうか?と。シュタイナーもちゃんとそこは指摘しているんですよね。「これが絶対ベスト」なんて方法はなくて、ひとりひとりの子どもの様子をみながら、その都度ベストを探っていくべき(←私の意訳なのでアテになりませんが)、というよーなことを。
書くことに夢中
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ウチの子たちは特に「書くこと」に夢中です。3歳になる前から自分の名前はよぼよぼながらも情熱をもって書いてました。プリ・スクールに行くようになると、アルファベットはすぐ覚え、お友達の名前をコピーして書くようになりました。
プリ・スクールでは読み書きも一応プログラムには入っていますが、「小学校入学までに自分の名前が読めて書ければ立派なもん」という基準なので、それ以上その興味を引っ張ろうとはしません。
「学びたい意欲」が早いうちから芽生えてしまったのなら、それはそのまま受け入れてあげればいいんじゃないかと思うんです。大人が意図的に引っ張るのでもなく、抑えるのでもなく、出てきたまんま、素直に受け入れる。
「これ、どう読むの?」「どう書くの?」と聞かれれば答えるけど、こちらからは刺激はしません。仕掛けても興味がないことは無視されるだけだし。逆に、興味のあることは、別に刺激しなくても自分からどんどん知りたがって覚えていきます。また、「それはまだ早いから止めろ」とも言わず、気の済むまで放っておきます。
・・・とゆーと、いかにも一環した教育論に基づく教育ママみたいに聞こえるかもしれません(^^;)。が、実態はというと、自分たちのことで頭と時間がいっぱいいっぱいだから、結果的にそうなっているだけ、、、だったりします(^^;)。
さらに、キンディ探しのときにふと漏らした、ダディの鋭い指摘!
「結局、あの子たちがキンディ行きたくないっていうのは、ボクたち親と一緒に過ごしたいからじゃないか? 親と一緒にいたがるのなんて、もうあと何年かのことなんだから、今は仕事よりも子供たちと一緒にいる時間を少しでも増やしたほうがいいんじゃないの?」
これもまったくそのとおり!
結局、教育論はいろいろあっても、実際に毎日成長の様子を認めて受け入れてあげられるのは、一緒に暮らしている家族なんですよね。
英才教育 対 シュタイナー教育の二元論ではなく、その子に合った教育スタイルっていうのは、家庭ごと、子どもごとに自然と開発されていくものなのでしょう。
・・・とはいえ、忙しくてなかなか意識してはやってらんないのですが(^^;)。
最初のダディの指摘のように、まずは親の事情優先。親がハッピーじゃなきゃ、子どもとハッピーに過ごせませんから。そのうえで無理のない範囲で、親も楽しみながら、子どもたちとの時間を過ごすことが一番なのかなあ、って今のところ、思ってます。
仕事と家庭、プライオリティのバランス。ついつい仕事のことばかり夢中になりがちな母ですが、家族みんなにとって心地のよいバランスを見つけていきたいものです。
お誕生日当日は、ダディとマミィが揃ってプリ・スクール見学に行きました。いわゆる授業参観日というものはないようですが、毎日1~2人の親御さんがサポート役として参加できるようなシステムがあります。熱心な親御さんは何度も手伝いにいくのでしょうが、仕事をもっている親御さんは子どものお誕生日に合わせて仕事を休んで参加することが多いみたいです。
朝一番に、先生が『ジャックと豆の木』の絵本を読んでくれました。それから外遊びの時間をはさんで、このお話にまつわる言葉を勉強します。
今回は『ジャックと豆の木』に登場した【大男 Giant】 という言葉を拾って、「これと同じ言葉にどんなものがありますか~?」と、子どもたちに質問を投げかけていました。
「big」はすぐに出てきたのですが、他の言葉がなかなか出てきません。「Really really big」なんて発言する子もいました(^^;)。先生がなんとか引っ張って「tall」「huge」は出てきたけど、「enormous」は結局先生から切り出すことに。
「へえ、enormousってスゴイっていう意味かと思ってたけど、デカイっていう意味だったんだ」と今ごろ気づく私。マミィの英語力は幼稚園児並なのだ(^^;)。
さらに、「ほら、ピザの注文するとき、 サイズ指定するでしょ? ラから始まる言葉。」と先生が引っ張って、ようやく「large」が出てきました。
「それじゃ、もう一度最初から」ってことで、ビーッグ、トール、ヒュージ、エノーマス、、、と合唱して、ラージのところで一息置いて「ピッツァ!」と元気よく叫ぶ子供たち(^^;)。
かわいかったです。
チェリー配給部隊
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モーニングティー(軽いスナックや果物を食べる休憩)の時間には、ウチから運んだチェリーを、お誕生日のカレンとリサがみんなに配給することになりました。
ホントはお誕生日には親がバースデーケーキをクラスに差し入れるのが正しいオージー式(^^;)。
だけど、ケーキは切ったりするのが先生にとって手間だからと思って、今回は季節もののチェリーを差し入れた、というワケです。
クラスメートは、チェリー配給部隊に「ハッピーバースデー」と声をかけてくれました。果物キライの子もいますが、大抵は喜んで食べてくれたようです。
休憩のあとは、屋内での遊び時間。広いクラスルームは、ホームコーナー(要するに、おままごとコーナーでしょう)、粘土遊びのテーブル、お絵かきコーナー、パズル&ゲームコーナー、積み木コーナーなど、いくつかの場所に分かれていて、それぞれが想い想いの場所に行って好きな遊びをします。25人の子供たちがうまい具合に自然とグループ分けされるのですね。そして、ひとつの遊びに飽きると、今度は別のコーナーに移動します。
みんなそれぞれにわいわいとやっていると、先生がやってきて「ちょっと見せたいものがあるから、外に来て」と言います。
みんなは遊びの途中で、外のテラスに走っていて座ります(あぐらが正式な座り方らしい)。テラスのベンチに座った先生は、「ジャックと豆の木」の話から敷衍して、豆の葉を作ってみよう、と提案。
マジック・ビーンズの種まき
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「まずはホンモノの葉っぱを観察してみよう」と先生がいうと、わーっと子供たちは庭に飛び出していって、ホンモノの葉っぱを取ってきます。その匂いをかいで、手で触り、目で観察。それを画用紙に表現しましょう、というワケ。
それから、ジャックがもらった「マジック・ビーンズ」を種まき。これは、いわゆる「理科」の時間みたいですね。自分の名前が書いてある小さなカップに土を入れ、豆を埋めて、水をあげる。こうして、順番に一人一人が種まき実習をします。
1つ1つのセッション(授業)はとても短く、せいぜい15分程度。子どもたちの集中力が続かないせいでしょう。先生の説明が終わると、また、わーっと遊びに戻ります。
先生が説明している間にも、お友だちにちょっかい出したり、いたずらする子も、もちろんいます。先生に注意されて、それでも直らないときは、「後ろに行って立ってなさい!」。
あー、こんなのあったよなあ、と自分の小学校時代を思い出しました。
小学校時代、いたずらっ子だったラースは、「自分が悪いことして叱られているような気がしたよ」と笑ってましたが、優等生だった私は、いかにも優等生的役割をこなしている女の子のことが気になり、まるで昔の自分を見ているような気がしちゃいました。
「その役割をがんばってこなさなくてもいいから、それよりも、あなたらしさを大切にしてね」と祈るような気持ち。
半日一緒に過ごしたクラスメートの子どもたちが、すっごくカワイイ!って思いました。どの子もすっごくカワイイのです。
自分んちの子はかわいいと思っていたけど、他の子どもにはあまり興味がないほうだったので、「へえ、こんな気持ちが自分にあったのか」と、ちょっと新鮮な発見でした。
「え?もう5歳? 早いもんよね。こないだ生まれたばっかりだと思ったのに」・・・なんて声を聞いたりしますが、個人的には「あー、ようやく5歳かぁ。本当に長い道のりだったー」という感じ。
赤ちゃんだった頃のことを思い出すたびに、「大変だったなあ、よくやってきたなあ」とため息が出ます(^^;)。
ケンカするほど仲がいい?
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今ではすっかり手もかからなくなり、自分のことは自分でやるし、機嫌さえよければ二人仲良く遊んでいますが、やっぱりケンカは付き物ですね。
ベストフレンドのくせに、一番の敵でもあるんですよねぇ。この不思議な人間関係は、兄弟のいない私にはよく分からないのですが。
さて、5歳のお誕生パーティー。去年までは近所を招いてウチでひっそりとパーティーしてました。今年は、既にプリ・スクールのお友だちに招待されているので、何もしないで済ますワケにもいかず。
かといって自宅で豪勢なパーティーをするのもシンドそう。
ピエロのおねえさんが仕切ります
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そこで、お手軽なところで、ハングリー・ジャック(マクドナルドみたいなファーストフード屋さん)のバースデー・パーティー企画を利用することにしました。親にとっても初めてのことだから、この国でのバースデー・パーティーのシキタリを学ぶ上でも、典型スタイルを試してみようと思った次第です。
ハングリー・ジャックにはお子様用パーティー部屋が用意されていて、格安料金で、軽食つきのパーティーを催行してくれます。って、私は廻し物か?!
カレンとリサは、今、3つの施設に通っています。それは決して教育的な配慮からではなく(^^;)、いろんな事情からそうせざるを得なかっただけのことなんだけど。そのおかげで、3箇所から異なるお友だちを集めてくるので、バースデー・パーティーには総勢17人の子供たちが集まることになりました。
何が入ってるかな?
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まずはマミィが作った招待状を誰に手渡すかで家族会議。それをプリ・スクールやキンディの連絡ポケットに入れてきます。すると、お買い物などでひょっこり出会ったときに、「招待してくれて、ありがとう。参加するよ」とお返事をくれます。
当日は、なんとも賑やかなパーティーでした。特に、キンディで一番仲良しの双子の男の子(レミー&ジョイナー)が参加してくれたので。まあ、この子たちのエネルギーといったら(^^;)。
楽しかったけど、親子ともども疲れました。特に、母はふだん使わない脳ミソを使ったようで、ヘンに「健康的な疲れ」を感じました(^^;)。
「私ってダメな母親ね」というのが私の長年の悩みでした。子どものことより自分のことに夢中で、子どものことを最優先する「いいお母さん」になれない自分に劣等感や罪悪感を感じていました。
でも、それが年々少しずつ和らいできました。というのも、こ~んな母なのに、子どもはちゃんと育っているし、精神的にも安定しているし、見ていてとても幸せそうだから。もちろんダディの貢献は見逃せませんが、愛さえあれば母はこんなにダメでもいいのだ~、という自信がついてきたんですよね。もうこのまんまでOK! 開き直り、とも言えますが(^^;)。
自転車、マミィより上手!
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そもそも「いいお母さん」って何なんでしょう? いつも子どものことを考えて子どものために奉仕するお母さんでしょうか? なぜかそんなイメージがあって勘違いしていたのですが、子どもというものは親に何か「して欲しい」と思っているワケじゃあないようです。それよりも自分のことを愛してくれている、認めてくれている、見守ってくれている、そういう実感を求めているようです。「愛を感じる」ことが大事みたい。
私は子どもたちのことが大好きだし、いつも事あるごとに「カレンちゃん、大好きよ」「リサちゃん、大好きよ」と頻繁に言葉にもしています。そう言われると、ちょっと疲れてゴネていた子どもも、急にご機嫌よくなったりして。こんな単純なことでいいのか?という気もしますが、なんかもう、それだけでOK、それがすべてって感じ。
それと、感情を素直にそのまま解放することを学んだことも、私たち親子関係にいい影響を与えてくれました。
以前ブログをやっていたとき、「ネガティブな感情にどう向き合ったらいいか?」というテーマがありましたが、その後、すごい発見をしちゃったのです!
それは、「出てくる感情を歓迎してあげると、根本的な問題解決になるよ!」ということ。
感情にネガティブもポジティブもないんですよね。それを、いいもの、悪いもの、と決め付けているのは私たち自身。怒りも悲しみも嫉妬も憎しみも、すべて、必要があって出てくる感情。出てきた感情は素直に受けとめて味わい、外に出してあげる必要があるのです。
「これは悪いもの、ネガティブなもの」としてレッテルを貼って、心の奥にしまいこんでも結局は潜在意識の深いところに入り込んで、いろんな影響を与えてきます。ネガティブなものとして本人に否定されると、直接その本人の意識の上には浮かび上がることができないので、今度は潜在意識のさらに奥、いわゆる集合無意識に到達して、そこから他人の潜在意識を通して、その感情が外から刺激されて出てこられるよう仕掛けてきます。
"ハグ"は何にも勝る癒しです。
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せっかく刺激されても、「怒るのは間違ったこと、大人として感情をコントロールできなくてはダメだ」というモラルが、その感情にさらにきつくフタをします。だから、その感情はなかなか外に出られず、また外から更なる強い刺激がやってきます。
その感情が完全に解放されるまで、そのパターンは繰り返されます。「なんで私はいつもこんなひどい目にばかり遭うんだろう?」と思ったりしますが、それは出てくるべき感情を自分が抑制しているから、なのですね。せっかく感情を解放するチャンスを与えてもらっているのに、意固地にフタを開けようとしないから、もっともっと大変なことが起こるようになる。
特に、子どもと付き合っていてイライラしたり、ブチ切れたくなることがありますが、そういうときは「私は大人なのだから、ここは寛容に」などと自分をたしなめて、その感情にフタをしてしまうことが多い。「いいお母さん」になろうとして、自分の感情が解放されるせっかくのチャンスを握りつぶしているのです。
ここまでは理屈・知識としては、ずっと前から知っていました。ただ、どうしても否定的な感情を解放しようとするときに伴う苦痛がどうにも耐えがたく、どうやって実行したらいいのか分からなかったのです。Devaの加藤さんがイイコトを教えてくださいました。
怒り、悲しみ、嫉妬、憎しみなどの感情を解放して味わうとき、なぜ苦痛を感じるか?
・・・というと、それは自分自身が「これは否定的な感情だ」と勝手にレッテルを貼っているからだ、ということ。
こんな否定的な感情を持っているのはイケナイことだ、そんな自分は許せない、情けない、ダメな自分だ、、、と自分を責める気持ちが働くから、苦痛を感じる。
つまり、自分で自分の首を絞めているだけだったのですね。
そんな思い込みをとっぱらって、「おお、私はこんな感情を閉じ込めていたんだな。よしよし、思い切り出ておいで」と、その感情を歓迎してあげると、いきなりラクになる。
感情にネガティブなんてものはないのだ、出てくるまま、ありのままに解放させてあげればいい。
そして、それを十分に味わい尽くすことで、問題解決が早くなるのだ、、、ということに気づかせていただきました。
ただいま鬼ごっこのまっさい中
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これ、実際にやってみると、効果抜群です。
やり方のコツがつかめるやいなや、遠い過去までさかのぼって、ぜーんぶ感情解放クリーニングしてきました。そして、今まで苦痛だったことの正体もはっきり認識することができました。
でも、過去の感情を全部お掃除したからといって、それで万能なワケではなく、毎日生きていればポコポコと新しい感情が生まれます。
新しい感情が生まれるごとに、そのままウェルカムすることにしました。同じことを子どもに対しても、やっています。
たとえば、疲れるとご機嫌損なってケンカをはじめる子どもたちに向かって、腹がたったら、そのまんま「マミィは怒ってんだよ!」と感情的になって訴えます。
そのとき、自分を忘れるほど怒り心頭しては危険なので、自分を客観的に俯瞰(フカン)している、もう一人の自分の視点をキープしておくんですね。そのうえで、その怒りの感情を客観的に観察しながら、主観的に味わうのです。
今までは、そこで怒りの感情を押し殺して、大人らしく平等にケンカを落ち着かせるようにと、いわば「裁判者」の役割をこなしていました。が、もう、そんなのヤメヤメ!
あんたたちが下らないことでケンカすれば、こっちだって頭くるのよ!ということを、そのまんまストレートに出しちゃう。
ここで「わたしは○○と感じる」という具合に、「I」を主語にして伝えるよう意識してます。「あんたはいつも○○なんだから!」と「You」を主語にすると、攻撃的になっちゃうから。
すると、どうでしょ。しばらくは子どもたちと一緒くたになって怒鳴り合い、おしあいへしあいをするのですが、それが1ラウンドすると、子どもたちも私もスッキリ。「ユーアー・マイ・フレンド」「アイラブユー」と恋人モードに戻るばかりか、さらに絆が深くなったようにすら感じられます。
こうして、いわゆるネガティブ感情をありのままに表現するようにしたら、今度はポジティブ感情もストレートに出てくるようになりました。いつのまにか感情を押さえ込むクセがついていたのでしょう。笑いや喜びや幸せを感じることにもフタをしていたようです。
そうやってあらゆる感情を歓迎するようにしたら、子どもたちと過ごす時間が以前にように退屈ではなく、おかしいことに思い切り笑ったり、ワクワクしたり。まるで子どもの頃に戻ったみたいに、楽しくなってきました。
なお、感情の解放っていうのは本来、一人になれる時間、安全な環境を選んで行うべきで、子ども(他人)に直接当たったりするのは望ましい方法ではないのかもしれません。ブチ切れたついでに手や足が出ては困るし、言葉の暴力が子どもの心を傷つける危険性もあるでしょう。
私の場合、客観的にフカンしているもう一人の自分を信頼することができたし、また、あえて子どもの前で表現するほうが自然だと感じたので、そうしてみました。「いいお母さん」をやめるためには、そういう過程が必要だったのかもしれません。
もともと客観性を失いやすい方にはこういう方法は向いていないでしょうし、人によって適当な方法は異なるのだろうと思います。そこんところ、どうぞお含み置きください。
3人のビッグ・ガールズ
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そうそう、それから、もうひとつ。子どもたちのお誕生会のあたりから、私たち夫婦の関係がちょっと変わってきているんです。
もともと夫婦仲はよいほうだと思いますが、以前にも増して、深いところでラブラブなの(^^;)。お互いをとても信頼して愛しているので、何があってもあまり心が波立たない。
それが子どもたちにも波動となって伝わっているのでしょう。リサもカレンも、日々幸せそうにしています。
私たち家族を守り、育くんでくださる、すべての人たち、自然、宇宙を含めたエネルギー体すべてに、感謝しています。ありがとう。
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2005年08月11日:福島
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